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字体・字形・書体・字種

こんな雑文でも一応著作権法で守られています。無断転載はしないでください。(2003.10.9〜)

「梟覇」という小説のタイトルを筆で書く仕事をしました。隷書で書くことになったのですが、今日本で使っている「覇」という字はないのです。
字書に載っているものは左にあるようなものです。
どうも左右のいちばん上にある「あめかんむり」+「革」+「月」というのが最も一般的なもののようです。
さあ困りました。歴史的な字を書くべきか、それとも今書かれている日本の字を隷書風に書くか、二者択一です。
これがボクにとっての「字体」の問題です。

タイプフェースでは、「字体」「字形」「書体」「字種」という言葉があります。これを整理してみましょう。

字体の差

「吉」は、上の方に横線と縦線を平べったくクロスさせ、その下にもう一本横線を書く、その際縦線と接する。さらにその下にやや横長の長方形を書く。

というような「概念」を「字体」というようです。ですから左のように示してしまうと「概念」とはいえなくなってしまうのですが、算数の授業で「線分には面積がない」といいながら教師が黒板にチョークで線分を書くようなもので、説明の都合上お見せしているとご理解ください。

左の「吉」では上部が一方は「土」、一方は「士」になっています。こういうのを「字体が違う」といいます。
左の「吉」は、字体と字形が違い、書体と字種は同じです。
JIS規格では、文字コードは1つで、どちらの字体を採用するかは、フォントをデザインする者にまかされています。
字体が違うけど文字コードは同じ。こういうものをJIS規格では「包摂」といいます。

人間がフリーハンドで文字を書けば、垂直な線や水平な線は書けませんし、直線も書けません。なんとなく波打ったような線になってしまうこともあるでしょう。長方形だってゆがんでしまったり、三角形みたいになってしまったり、四隅が閉じていないこともあります。書く度に形は違いますし、書く人によっても違います。頭の中にある〈字体(概念)〉と比べあわせて〈字種〉を判断できるというのは、実はものすごく不思議なことなのです。

これは脳科学でいう「汎化」のおかげなのだとおもわれます。人間の脳はわざとあやふやに覚えているのです。それを「汎化」といいます。もし人間の脳が「汎化」をしないとすると、以前逢った人が、髪型を変えていたり、違う服を着ていると「違う人」と判断してしまいます。あやふやに記憶しているから「同じ人」と判断できるのです。字体の判断にも「汎化」が役にたっているのだとおもいます。

なお〈字体〉のことを中国では〈字様〉といいます。

字形の差

〈字体〉は概念ですから見えないものです。しかし書かないと概念がうまく伝わりません。算数の授業で先生が「線分には太さがない」といいながら黒板に太さのある線分をチョークで書きますが、それと似ています。実際に書かれた概念は概念そのものではありません。実際に書かれたモノを見て他人の概念を探っているのです。〈字体〉という概念を書いた、字の物理的な形のことを〈字形〉といいます。〈字形〉を見て「この人はこういう概念をもっているんだな」と思ってもそれがあたっているとは限りません。かならずズレがあるはずです。同じ〈字体〉を書いても、ボールペンで書くのとフエルトペンで書いたのでは太さが違います。同じ筆記具で書いてもフリーハンドで書けば書くたびにどこか違います。字を二つ書いて透かしてみてみれば違いがわかります。その違いを〈字形〉の違いというのです。

書体の差

〈書体〉というのは、似通った特徴や歴史的成り立ちをもつ〈字形〉の集合です。「楷書(かいしょ)」と「行書(ぎょうしょ)」、「明朝体」と「ゴシック体」、欧文の「セリフ体」と「サンセリフ体」などの違いのことを〈書体〉の違いといいます。ただし(あたりまえですが)漢字とアルファベットの違いなどは、〈書体〉の違いとはいいません。
書道の書体の主なものは、篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)、楷書、行書、草書(そうしょ)です。秦の小篆(篆書)、漢の隷書、唐の楷書を正書(せいしょ)といいます。正書というのは為政者が正式と認めた書体です。行書や草書は正書ではありません。行書は正書を早書きしたもので、草書は正書を簡略化した字体です。ですから、「篆書の行書」、「隷書の行書」、「楷書の行書」、「隷書の草書」、「楷書の草書」があります。「篆書の行書」が隷書を生み、「隷書の行書」が楷書を生んだのです。草書はもともとは隷書をくずしたものです。

書風・書流

同じ楷書(かいしょ)でも、歐陽詢(おうようじゅん)の楷書と虞世南(ぐせいなん)の楷書では印象が違います。印刷用書体でいえば、同じ明朝体でも「リュウミン」と「ヒラギノ」では印象が違います。このように「書体の違い」というカテゴリーで分けられない、「雰囲気の違い」のようなものを、用語としては厳格に規定されてはいないけれど〈書風〉または〈書流〉という言葉で表現します。
江戸時代は「御家流」または「青蓮院流(しょうれんいんりゅう)」という書流が公文書に使われましたが、これはおおざっぱに分類すれば「行書」なわけですから、〈書体〉の違いというよりも、〈書風〉または〈書流〉の違いといったほうが良いとおもいます。「書家の○○先生のお弟子さんたちは楷書の〈書風〉が似ています」あるいは「あの人たちは同じ〈書流〉です」という具合に使います。
私見ですが、書風の違いでは著作権や意匠権の主張はきびしいけれど、もし新しい書体を創ったら主張できるのではないかとおもいます。

字体と書体

書体特有の字体というのがあります。書体がかわるとその書体の字体になってしまうのです。それが用語の解説をわかりにくくしているのでしょう。たとえば(しめすへん)は楷書(かいしょ)では「示」と書いたり「ネ」と書いたりしますが、隷書(れいしょ)では必ず「示」と書きます。ですから(しめすへん)を「ネ」にして隷書で書くことはできません。現代の新字体(略字)をむりやり隷書や篆書で書いたフォントがありますが、本来そういうものはありません。作家の村松友視さんは、自分の名前の「視」のしめすへんは「示」だと主張しているそうです。明朝体やゴシック体の「視」は現在ではしめすへんを「ネ」と書くので、村松さんが出演するテレビ番組は困っています。以前、テレビ朝日の「ニュースステーション」に村松さんが出演したとき、村松さんの氏名だけ隷書が使われていました。これには心の中で拍手を送りました。

字種

〈字種〉というのは、その文字がその文字であるということです。「未」と「末」は〈字体〉〈字形〉は似ていますが、違う〈字種〉です。一方「天」には上の横画が長いものと短いものがありますが、どちらも同じ〈字種〉です。一般的に手書きでは、上の横画が短くなり、明朝体やゴシック体では長くなります。「齊」と「斉」、「齋」と「斎」は字体は違いますが同じ字種です。単に旧字と新字のちがいです。「喜」を草書にすると「七十七」とか「七七七」みたいになりますが、同じ〈字種〉です。
府川充男さんによれば、字体や書体が違うけれども字種が同じだと判断できる能力を、昔は「文字をわたる」といったそうです。活字の植字工たちは、そういう字を「ワタリがある」と表現していたのです。近頃は文字をわたれる人が少なくなってきました。